慈覚大師円仁さま「その3 求法」(法話第30話)

 

その3、求法(42歳~52歳)

 承和3年(836)、円仁を乗せた遣唐使船は博多港を出港。2度の渡航に失敗し、3度目の渡航においてようやく唐の地に入ることが出来ました。
 円仁は、さっそく天台山へ求法に行く許可を申請しますが、なかなか許可がおりず、帰国せよとの命に従い帰国船に乗り込みます。しかし、このまま帰国することは本意に非ず、帰国船を降りて、密入国の決断をいたします。
 その後、天台山と並び優れた仏教聖地である五台に向かいます。一時滞在していた赤山から五台山までは1270km。弟子2人、従者1人、ロバ1頭からなる円仁一行は、大平原や黄河を渡り、44日間歩き続けました。
 3000m級の五つの峰からなる五台山には寺院が立ち並び、多くの修行者や巡礼者が過ごしていました。 先ず竹林寺に入った円仁は、「阿弥陀仏」を音楽的に唱え続ける「念仏三昧」の教えを授かりました。その後、大華厳寺で多くの経典を書き写しました。
 約2ヶ月後、唐の都の長安へ出発します。約1090kmを経て到着した長安は、人口100万人の世界最大級の国際都市で、大興善寺や青龍寺などを中心に「密教」が盛んでした。円仁は、密教を深く習得し、曼荼羅や梵語(経典の原語である古代インドの文字)も修めるなど、多くの成果を得て、唐歴会昌元年(841)帰国の申請ををします。
 ところが、時代が暗転し、烈しい仏教の弾圧が円仁に襲い掛かります。「会昌の廃仏」と称される弾圧は、第15代皇帝武宗によるもので、不老不死の教えに執着した皇帝は道教(中国古来の宗教)にのめり込み、仏教を弾圧したのでした。
 やがて武宗は外国僧をを還俗させて国外追放する命を下します。円仁はやむなく僧服を脱ぎますが、肌身から離しがたく、法衣を細長く畳んで首に掛けました。これが輪袈裟の始めと言われます。
 会昌5年(845)、円仁は長安を出発し、仏典類を守りながら、海岸に到着します。帰国船を待つこと2年、ようやく帰りの船に乗り込むことが出来、10年ぶりの懐かしい母国へ向かいます。何度も絶望的な苦しみに耐え抜き、多くの教えを携え、法を求め伝えるという、強い精神力が、帰国の夢を叶えさせたと言えましょう。
 円仁は、唐での10年間にわたる求法の旅を、『入唐求法巡礼行記』という書物にして後世に伝えております。この『入唐求法巡礼行記』は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵の『大唐西域記』と並んで、世界の三大旅行記と呼ばれております。

2014-08-01 慈覚大師円仁さま「その4 弘法」(法話第31話) 慈覚大師円仁さま「その2 修行」(法話第29話)
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